お寺の住職から理不尽な暴言を吐かれ、氏神様のおみくじで静かな救いをもらった前回の出来事。

ですが、家に帰ってきてからも「どうしてあんなことを言われなきゃいけなかったのか」という怒りと悔しさはなかなか消えませんでした。
今回は、傷ついた私が勇気を出して総本山へ電話をかけ、そこで出会った「市井(しせい)の人」の温かい言葉に救われた体験をお話しします。
「先生や立派な人の言うことは絶対」「断れない・自分を責めてしまう」という心理パターン(境界線の問題)から抜け出すためのヒントになれば幸いです。
1. 理不尽な被害への葛藤と、総本山への電話
自分自身の傷つきと同時に、「こんな理不尽な被害を受ける人をこれ以上増やしたくない」という正義感のような怒りも入り混じっていました。
旅の途中で「困ったことがあって総本山に電話した」という話を思い出し、私も勇気を出して電話をかけてみることにしたのです。
電話に出てくださったのは、30〜40代くらいの寺男(てらおとこ)さん(お寺の雑務や管理を手伝う男性)でした。
私は、お寺という場所で住職から人格を否定され、心を深く傷つけられた出来事をありのまま話しました。
2. 評価・ジャッジのない「完全な共感」が持つ圧倒的な癒やし
私の話を聞き終えた寺男さんは、静かに一言こうおっしゃいました。
「……最低ですね。」
その瞬間、私の中で張り詰めていた糸が切れ、目から涙が溢れ出しました。 自分の感じていた怒りも傷つきも、何一つ否定されず「100%味方になってもらえた」と感じた瞬間でした。
さらに寺男さんはこう続けられました。
- 「僕はただの『市井(しせい)の人間(=普通の一般人)』ですがね」
- 「ここでお寺を手伝っていると、本当にいろんな人が来ますよ。住職だって、ただの人間ですから」
立場や肩書でマウントをとることもなく、ただ眼前のひとりの人間にどこまでも寄り添うその姿。 激しい波のようだった私の心は、寺男さんの一言で静かな波へと凪いでいき、穏やかな癒やしへと包まれていったのです。
「住職に伝えましょうか?」という申し出に、「もう、その言葉だけで十分です」とお礼を言い、通話を切りました。
3. 「立派な人の言うことは正しい」という思い込み(呪縛)を解く
私たちはついつい、住職、先生、社長、コーチといった「立派な肩書き」を持つ人の言葉を無条件に正しいと思い込んでしまいがちです。
ですが、過去に私が本当に苦しいとき、そっと支えてくれたのは特別な肩書きを持たない「身近な人たち」でした。
- 専業主婦の友人
- 小学校からの幼馴染
- 近所に住んでいたおばあちゃん
- 職場の先輩
彼らは「あなたのここが間違っている」という批判や説教ではなく、ただ「腹が立つよね」「十分頑張ってるよ」とささやかな共感をくれました。
言葉の表面上の正しさや立場ではなく、「自分の傷つきに共感してくれるか」という愛の感覚。 「立派な人の言うことは正しい」という前提を手放し、「自分がどう感じるか」を一番に大切にする生き方へ、私の心はしっかりとシフトしていきました。
4. 人間関係で「非難されるループ」の元凶と、父との関係性
幸いにも今の私は、湧き上がる怒りを認識し、しっかり言葉として表現できるようになりました(これは大きな成長です)。
ですが、「なぜ私は繰り返し人に非難される出来事を引き寄せてしまうのだろう?」と考えたとき、ある根本的な記憶に行き着きました。
「……そうだ、父だ。」
昔から私を罵倒し続け、私が恐怖で固まるしかなかった父との関係性。 おみくじにあった「日々の自分への優しさで心を丁寧に拭い、本来の自分と繋がり続けなさい」という言葉は、まさに自分の心の鏡を磨くタイミングが来たことを教えてくれていたのです。
心の奥底に封印してきた父とのトラウマに、いよいよ向き合う覚悟が決まりました。
(第4弾へ続きます)

