高度な生成 AI技術でチャットGPTが
あっと言う間に普及してきましたね。
テレビを見ていたら
絵を読み込ませて
絵にあった文章をAIがあっというまに作成していました。
ラクだな~
AIに任せたくない感覚
これからはAIがどんどん高度に発達して
それは抗えないこと。
ニュースも
ドラマも
映画も
アートも
AIが作っていって
人間が作ったものなのか?
AIが作ったものなのか?
きっと判別が難しくなっていきそう。
そんな時代になってきたとしても
自分が自分を知ることを
忘れてはいけないような気がする今日この頃。
五感を使って自分を知る
AIがどんどん発達していったとしても
自分の感覚までAIには委ねたくない。
AIに任せきりだと
自分の感覚が信用できずに
AIにOKか?バツか?
判断を委ねて
人生をAIに決めてもらうことになってしまいそう。
それを防ぐには
自分の感覚を許し、自由になることが
AI時代に飲み込まれない術の一つになるのでは?
自分を知る方法は五感を使うこと。
五感は
・味覚
・嗅覚
・聴覚
・触覚
・視覚
この感覚は、自分を知る道しるべになります。
忘れられない風景が五感を蘇らせる
例えばあなたは忘れられない風景ありませんか?
その忘れられない風景を思い出すと
感じていることが湧き出てきます。
私は赤い夕焼けをみると
切なさを感じるんですね。
それは嫌な切なさではなくて
心地よい切なさ。
私が幼い頃に住んでいた町は
名古屋にある本城町という小さな町。
家から小学校までの通学路。
その途中にある名鉄電車の線路。
風景が浮びます。
夕方、小学校から帰ると
9歳年下の弟を自転車のうしろにのせ
電車を見せによく行きました。
まだミルクの匂いがする弟の
からだの重さを後ろに感じながら
自転車を つま先立てで
えっせら えっせら 坂を登り
線路までこいでいく小学生のわたし。
しばらくすると
赤い夕焼けをバックに
向こうから
電車がガタンガタンと走ってきて
それをみて弟は
でんちゃ
でんちゃ
と、喜んでいました。
母は子育てが難しかったので
弟のお母さん代わりをしていたまだ幼い私。
弟を守りたい。
弟を喜ばせたい。
ですが、出来ることが少なくて
力がない小さな私を感じると
今も胸がキュッと痛みます。
大人になった今も
夕焼けをみると
頑張ってた幼い私
純粋な幼い私
が、
風景と共に
胸の痛みも同時に蘇り
切なさなが
心地よく胸に響きます。
視覚も
聴覚も
触覚も
嗅覚も
味覚も
私の中に鮮やかに感じる。
これをAIに任せていたら
自分の中に五感は感じられないかも。
自分が感じていることにOKを出す
AIを利用する時代を受入れながらも
人として生まれてきたからこそ
感動を味わっていきたいもの。
感動はひとがものの見方を示せるバロメーター。
AIが発達していく時代に移行するからこそ
五感を感じ
感覚を大切にし
インサイト(洞察、発見、見抜く)を育み、
AIに踊らされたくないものです。
自分の感じている事に
自分でたくさん「イイよ」って言ってあげたいし
心を守っていきたいです。
あなたには
どんな忘れられない風景が
ありますか?
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